地球探検 ドミニカ共和国 吉田恵美子隊員 1
ドミニカ共和国のご紹介
ドミニカ共和国はどこにあるのか?
ご存知でしょうか?世界には“ドミニカ”と名の付く国が2つあります。正式国名は、「ドミニカ共和国」と「ドミニカ国」です。どちらもカリブ海に浮かぶ島ですが、全く別の国です。
今回は私の活動拠点である、ドミニカ共和国についてご紹介します。
ドミニカ共和国は中米に位置します。北米と南米の間に広がるカリブ海の大アンティル諸島にある島のひとつです。隣国のキューバ共和国に次ぐ2番目に大きな島「イスパニョーラ島」にあり、島内には2つの国が存在ます。東側2/3がドミニカ共和国、西側1/3程度がハイチ共和国です。
ドミニカ共和国といえば野球大国。アメリカ・メジャーリーグをはじめ、日本で活躍する選手もたくさんいます。歴代の有名な選手として、サミー・ソーサ選手、そして、現在、日本で活躍中の選手では、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するホセ・フェルナンデス・ロハス選手がいます。
この国の主な産業は農業です。沖縄に似た気候で、島にはサトウキビが多く生息し、砂糖とサトウキビが原料の「ロン:RON」というお酒が多く製造されています。また、島は美しい海に囲まれているため観光産業も盛んです。代表的な観光地である「プンタ・カーナ」は欧米人に人気です。そこから外貨収入を得ています。
プタン・カーナ
しかしながら、国全体の治安は安全と言えず、首都圏は日中でも窃盗等の犯罪に合う危険性があるため、気軽に外を歩くことは出来ません。夜はもっと危険度が上がりますので、私たち日本人は無用な夜間外出を避けるよう外務省から忠告を受けています。
通常、銀行やスーパー・マーケットの入り口には拳銃を持った警備員が配置されています。全世帯の半数以上は拳銃を所持していると言われています。些細な喧嘩から拳銃による殺人も稀ではありません。また、防犯のため、殆どの家の窓や入り口には鉄格子が設けられていますので、鳥かごの中に居るような気分になります。
これだけを聞くと物騒ではありますが、ドミニカ共和国人の気質は陽気です。音楽や踊りが大好きで、街のいたるところでドミニカ共和国発祥の音楽である「バチャータ」や「メレンゲ」がいつも聞こえています。日本人の私たちには少しうるさいぐらいです。
高級マンションの防犯用鉄柵
国の経済的状況は、貧富の差が大変激しいです。都会では高級住宅に住み、高級車に乗る人々が驚くほどたくさんいます。とても新興国とは思えないほどです。首都での物価は日本と変わらないように感じます。スーパー・マーケットで売っている日常品や食品の大概が輸入品なのでこの価格は仕方が無いのもしれませんが、一般家庭の収入では、毎回スーパー・マーケットで買い物をすることは到底不可能です。ちなみに国民の年収平均は約40万円程度と言われています。
一方、都会から少し外れると現れる貧困地区や地方では水道や電気が通っていないことも稀ではありません。例え通っていたとしても、断水や停電は日常茶飯事のことで、それは無いに等しい状況です。ここでは、生活用水は雨水の汲み置きを使用し、夜は真っ暗闇の中での生活です。そんな素朴な生活ではありますが、熱帯のサバナ気候なので、寒い季節が存在しないこと、トロピカル・フルーツやバナナやイモ類が自然に育つこと、そして人々が互いに助け合って生活しているのでお金が無くても「飢えて息絶える」ことは無いに等しいです。
コルマド(商店)
余談ですが、一般的な交通手段は相乗りタクシーです。ワゴン車タイプと乗用車タイプの2通りあり、どちらも1回の乗車は、50円程度です。日本製の車が90パーセント近く使用されています。20年から30年前の車も珍しくなく、ボロボロな状態で、よく故障して停車しますが、人々は気にしていない様子です。1台の乗用車には、運転手を除く6人が乗車します。助手席に2人、後部座席に4人です。すし詰め状態とはこのことをいうのでしょう。
乗り合いバス
イスパニョーラ島の歴史的について
1492年、イタリア出身といわれるクリストファー・コロンブス(Cristoforo Colombo)がスペイン国の援助を得て、「黄金の国・ジパング(日本)」に向けて出港します。しかし辿り着いた先は、カリブ海にある島々だったのです。
コロンブスは、ここがアジア圏であり、このイスパニョーラ島が日本だと間違って認識したと言われています(奇妙な日本との繋がりが有ります)。その後、コロンブスは武力行使により、ここをスペインの植民地としました。しかし、島の西側1/3はフランス人海賊が占拠したため、後に、フランス領になります。これが現在のハイチ共和国です。
クリストファー・コロンブス
このときの先住民であるタイノ族は、スペイン国の奴隷となってしまったため、過酷な労働を強いられ、また当時流行った疫病によりほぼ絶滅してしまいました。 その後、コロンブスはこの労働力不足を補うため、アフリカからたくさんの奴隷を連れてきます。 これが今のドミニカ共和国人のルーツです。
また、スペインとフランス間の戦争の影響で、長い間、ドミニカ共和国はハイチ共和国の支配下にありました。時には、アメリカ軍による支配を受けた時代もありました。このように ドミニカ共和国は他国に翻弄されながらも、1875年、今のドミニカ共和国として独立を果たしました。この国の歴史は、たった140年足らずです。
毎年、独立記念日のある 2月に行われるカーニバル
もうひとつの歴史に日本人移民問題があります。戦後の1956年から1859年の間、日本政府の移民政策により、249家族1319人の日本人がドミニカ共和国へとやって来ます。そのとき政府が移民に対して提示していた内容は「肥沃(ひよく)で広大な農地を無料譲渡」というものでしたが、そこは荒れ果てた砂漠で、実際には土地の所有権すらも与えられなかったのです。 それでも移民の人たちはやせた荒地で、来る日も来る日も石ころを取りのぞく作業をし、土地の改善を試みましたが、塩を含む土壌と水不足で作物を作れる状態にはなりませんでした。食べるものにも困る状況に陥りましたが、すでに日本には帰る場所も無く、落胆して自殺された方が多くいたと聞きます。この移民の方々の中には福島県出身の方も含まれていますので他人事には感じられません。
このことで、2000年から2006年にかけ、移民された方々が、ずさんな国策に対し、日本政府を相手に訴訟を起こしました。最高裁により国の賠償責任は認められました。しかし、勝訴はしたものの、時効という壁により賠償金請求自体は退けられてしまいます。当時の小泉首相はこの事を重く受け止め、和解案と共に直接謝罪したことにより、原告側はそれを受け入れ訴訟を取り下げます。現在では2世3世の方へと時代が移り変わり、そんな悲しい歴史的背景を直接知る人も少なくなってきました。
ネイバ県
当時の日本人宅
ドミニカ共和国の詳細情報
人口:10,056,181人
面積: 48,730km2 (日本の四国と大分の一部を足した程度) 首都:サントドミンゴ
公用語:スペイン語
気候:トロピカル、雨期と乾期あり(日本の沖縄県の気候に類似)
気温:最低気温18度、最高気温33度程度
バラオナ県にある海岸