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ディスカバーふくしま in TOKYO

印刷用ページを表示する 掲載日:2024年11月1日更新

東京にある福島県ゆかりのスポットを通じて、東京と福島のつながりを再発見して、皆様にご紹介していきます。
9月6日(金曜日)~12月1日(日曜日)の期間で、このゆかりスポットをめぐるスタンプラリーを開催しています。

<東京にある福島ゆかりをめぐるスタンプラリー “ディスカバーふくしま in TOKYO” 特設サイト>
https://tokyo-meguru-fukushima-yukari.com/

タイトルロゴ

vol.1 東京都台東区 なぜ上野に? 野口英世像のナゾ

vol.2 東京都中央区 築地に幻の庭園? 白河藩主・松平定信が愛した浴恩園

vol.3 東京都世田谷区 M78星雲との交流がここにも? 祖師谷・砧のウルトラマン商店街

vol.4 東京都渋谷区 淡い思い出、濃い青春 幡ヶ谷にあった福島県学生寮

vol.5 東京都千代田区 東京の守り神に? 常盤橋に鎮座する赤銅色の赤べこ

vol.6 東京都中央区 銀座の冬の風物詩? オレンジ色に染まる紙パルプ会館

vol.7 東京都台東区 浅草寺に“日本のナイチンゲール” 福祉の母・瓜生岩子像

vol.8 東京都江東区 清澄白河、やっぱり白河 受け継がれた松平定信の意志

vol.9 東京都港区 花咲かす 赤坂サカス 三春滝桜の子孫樹

vol.10 東京都新宿区 熱狂を彩った47都道府県の軒庇 千駄ヶ谷の国立競技場

vol.11 東京都調布市 円谷幸吉が駆け抜けた軌跡 調布のオリンピックマラソン折返点

vol.12 東京都新宿区 古関裕而が送るエール 早稲田大学応援歌「紺碧の空」歌碑

vol.13 東京都品川区 それは純愛の果てに 品川のゼームス坂 智恵子の最期・レモン哀歌の碑

vol.14 東京都新宿区 まぼろしの空中都市 大髙正人らの新宿副都心計画

vol.15 東京都中央区 極彩色の到達点 日本橋三越に降り立った天女像

vol.16 東京都新宿区 悲喜交交の会津藩主 四谷荒木町に生誕した松平容保

vol.17 東京都東村山市 “蛙の詩人”が定住した東村山 草野心平の「光あまねしの碑」

vol.18 COMING SOON(取材中)

なぜ上野に? 野口英世像のナゾ

上野公園の銅像と聞くと、西郷隆盛を思い浮かべる方が多いですが、野口英世(福島県猪苗代町出身)の銅像も鎮座していることをご存じでしょうか?
野口英世といえば、ノーベル賞候補にもなった世界的な医学者として知られています。
国立科学博物館と大噴水の間の木立にそびえたつ野口英世像(全長4.5m)は、医学者らしく右手に試験管を持ち、思索にふけっているようにも見えます。

しかし、なぜ野口英世の銅像が上野公園にあるのでしょうか?

まず、福島県大玉村出身の玉応不三雄(たまお ふみお)氏に行き当たります。
玉応氏は、野口英世の偉業を後世に伝えようと、銅像を造立すべく昭和22年から募金活動を行いましたが、道半ばにして病に倒れてしまいました。

その後、日本医師会、北里研究所、野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和26年にこの地に完成しましたが、なぜ上野だったのかは明らかになりませんでした。
(他の候補地もあったが、許可が下りずに上野公園にたどり着いた、との説もあり)

上野公園の野口英世像のナゾはまだナゾのままですが、玉応不三雄氏の強い意志が結びついたことは間違いなさそうです。

<最後に>
野口英世は千円札の顔としても有名ですが、令和6年の新紙幣の発行に伴って、千円札から姿を消すことになります。
しかし、新たな千円札に登場するのが、野口英世の師である北里柴三郎というのも、また面白いところです。

上野公園にある銅像
野口英世博士銅像
石碑
銅像の説明文

【関連URL】
・野口英世記念館(福島県猪苗代町)
https://www.noguchihideyo.or.jp/

築地に幻の庭園? 白河藩主・松平定信が愛した浴恩園

築地市場があった場所に、かつて広大な庭園があったことをご存じでしょうか。
それは、“寛政の改革”で知られる白河藩主・松平定信(※)が下屋敷の庭園として整備した「浴恩園」(よくおんえん)です。
※白河藩は、江戸時代に福島県白河市周辺を領有した藩。松平定信(宝暦8年(1759)~文政12年(1829))は第3代藩主。

浴恩園は、江戸湾から海水を引き入れた“春風”と“秋風”の池を巡る回遊式庭園で、花鳥風月を愛する定信らしい四季が感じられるものでした(画像をご覧ください)。
また定信は、詩歌を詠み、知人を招待するなど、浴恩園で隠居生活を謳歌したとされています。
(一説によると、隠居生活のために浴恩園をつくったとか…)                       
しかし、文政12年(1829)3月に起きた大火によって、浴恩園のあった下屋敷は焼失してしまい、同5月には、定信も72歳で人生の幕を下ろしました。

明治時代に入ると、浴恩園跡地は海軍用地などに利用されるようになり、関東大震災の後には、壊滅状態となった日本橋の魚市場がこの用地に移転し、昭和10年(1935)に築地市場の開場に至ります。

築地市場は、水産物や青果物の供給を担い、長らく首都圏の食を支えてきました。
現在では、その機能を豊洲市場に移しましたが、今後、築地市場跡地がどのように変貌していくか楽しみです。
浴恩園から姿が変わっても、時代を超えて、定信の意志が引き継がれていくのかもしれません。

<最後に>
松平定信は生涯に浴恩園を含めて5つの庭園を作庭しましたが、現存しているものは、福島県白河市にある「南湖」のみです。
湖畔にある“享楽亭”と呼ばれる茶室など、当時の様子を垣間見ることができます。

浴恩園図
「江戸浴恩園全圖」(右に“春風”の池、左に“秋風”の池)
小沢圭 写,明治17 [1884]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9367513 (参照 2023年08月24日)

築地市場跡
浴恩園のあった築地市場跡地

【関連URL】
・白河市HP 国指定史跡・名勝「南湖公園」を歩こう!
https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page001742.html

【参考】
・東京都埋蔵文化財センター調査報告 中央区都旧跡・浴恩園跡(2023・3)
・今橋 理子「江戸時代〈庭園画〉研究序説」学習院女子大学紀要(1999)

M78星雲との交流がここにも? 祖師谷・砧のウルトラマン商店街

平成25年(2013)、福島県須賀川市とウルトラマンの故郷「M78星雲 光の国」が姉妹都市提携を結び、現実の街と架空の街がリンクすることに驚きの声が上がりました。
これは、“特撮の神様”と称され、ウルトラマンの生みの親である円谷英二氏が須賀川市出身であったことが由縁でした。

しかし時を遡ること平成17年(2005)、いち早くM78星雲と交流を始めた街が東京の祖師谷・砧(そしがや・きぬた)にありました。名もそのままに「ウルトラマン商店街」です。
この商店街は、小田急線祖師ヶ谷大蔵駅の周辺にあり、祖師谷(駅北側)の「祖師谷昇進会商店街」と「祖師谷商店街」、砧(駅南側)の「祖師谷南商店街」の3つの商店街の総称となっています。
実は、祖師谷・砧は、かつて円谷プロダクションがあり、円谷英二氏が数多くの特撮作品を生み出していった場所なのです。
全国的な街づくり事業の機運に乗じて、世田谷区の職員による「世田谷売り込み隊」が音頭を取り、自治体・円谷プロ・3商店街が団結して、ウルトラマン商店街が誕生しました。

街には、駅前のウルトラマンシンボル像をはじめ、各所にウルトラヒーローや怪獣が顔をのぞかせます。
ゾフィー、ウルトラマン、ウルトラマンジャックが商店街のゲートで宙を飛び、ウルトラマンタロウ、ウルトラセブン、バルタン星人が街路灯に姿を変えて通行人を見守ります。
商店街の外れでは、カネゴンがベンチにひっそりと腰掛けています(カネゴンが商店街にあるのには深い意味がありそう…)。                         

子供の頃のヒーローは、いつまで経ってもヒーローのまま。
ウルトラマン商店街は子供の頃の感覚に巡り合える場所なのかもしれません。

<最後に>
祖師ヶ谷大蔵駅から新宿方面に向かうとき、電車が近づいてくると、懐かしいメロディーが駅のホームに流れてきました。曲名を思い浮かべるよりも先に、反射的にメロディーに歌詞を乗せていました。
“光の国から ぼくらのために 来たぞ われらのウルトラマン”                     

駅前ウルトラマン像
駅前のウルトラマンシンボル像

商店街入り口
商店街の一角。よく見ると、街路灯がウルトラマンタロウ

【関連URL】
・ウルトラマン商店街公式HP
https://www.ultraman-shotengai.com/
・すかがわ市M78光の町HP
https://m78-sukagawa.jp/

【参考】
・””の部分は「ウルトラマンの歌」から引用

 淡い思い出、濃い青春 幡ヶ谷にあった福島県学生寮

「県人寮」という名前は、首都圏の大学に通っていた方には耳なじみがあるかもしれません。
その県の出身者に限り入寮できる学生寮のため、地方の高校を卒業して初めて上京する学生や保護者にとっては心強い存在です。

かつて渋谷区幡ヶ谷(はたがや)に福島県学生寮がありました。
幡ヶ谷は、今では閑静な住宅街と活気ある商店街がセットになった、新宿駅まで電車で10分圏内の人気エリアですが、学生寮が設置される前まで遡ると、すでに京王線が通っていたとはいえ、住む人が少なく、戦火で焼けた野原が広がっていました。
その景色が移ろいつつある昭和31年(1956)、在京の福島県人会をはじめ各界からの寄付を受けて、福島県学生寮が幡ヶ谷に建設されます。

その後、幡ヶ谷では手狭になってしまい、郊外の千葉県松戸市に移転する計画が立ち上がります。
その際、「女子寮の設置も必要」との声があり、幡ヶ谷の寮を女子寮として残すことになりました。
そして、新築の松戸の寮は、男子寮として昭和44年(1969)に完成します。

実は、本記事の筆者は昭和後期に女子寮に在寮していました。
当時を振り返ると、女子寮は23時が門限でした。
寮の周辺には暗がりも多く、夜遅くに勉強やアルバイトを終えて、おびえながら寮に駆け込む学生がいる一方、心配する男性に送ってもらう学生もいました。
近くには銭湯もあり、ここで銭湯デビューして、その面白さに目覚めるケースもありました。

また、寮の部屋は、福島育ちの学生にはかなり狭く感じられましたが、窓を開けていても虫が入ってこないことには驚きました。
上京して一人暮らしを始めた友人がホームシックで泣いているのを見たときには、同郷の仲間に囲まれた寮生活は、今思えば、あたたかで恵まれたものと感じました。

福島県学生寮は、震災と同じ平成23年(2011)に閉寮し、55年の歴史を閉じました。

寮の存在が無くなっても、卒寮生にとっては、そこにいた事実は変わらず、ふとした瞬間に、その濃密な青春時代がよみがえるのではないでしょうか。

<最後に>
現在、幡ヶ谷の女子寮は民間企業によって再生され、マンションとして運営されています。
松戸の男子寮は解体され、現在では松戸市の戸定が丘(とじょうがおか)歴史公園の一部となっています。

当時の女子寮
当時の幡ヶ谷の福島県学生寮(女子寮)

 東京の守り神に?常盤橋に鎮座する赤銅色の巨大赤べこ

この数年、会津の郷土玩具である「赤べこ」が空前のブームとなっています。
有名なタレントが赤べこのファンであることを公言したり、単純に可愛いからであったり、と理由はさまざまです。
中には、赤べこが厄除けのお守りでもあることから、「新型コロナウイルス感染症の収束祈願のため」というのもあったようです。

そして、皆さんご存じでしょうか。
東京駅近くの「TOKYO TORCH(トウキョウトーチ)」に、令和3年(2021)10月、巨大な赤べこが設置されました。
サイズは幅1.5m×長さ3.6m×高さ1.8m、重さは約180kgと、東京で一番大きい赤べこかもしれません。
また、よく見る赤色ではなく、淡い赤銅色(しゃくどういろ)のカラーリングが施されています。

TOKYO TORCHは、東京駅前常盤橋(ときわばし)に位置する再開発地区(約3ヘクタール)のことで、大手町、丸の内、八重洲、日本橋を結ぶエリアとなっています。
この地区には、すでに常盤橋タワーが竣工していますが、令和10年(2028)竣工予定のTORCH TOWER(トーチタワー)に注目が集まっています。
このビルは高さが385mと、日本一高いビルになるとともに、日本のビルで初めて東京タワー(333m)を超え、東京の新たなランドマークになることが期待されています。

またTOKYO TORCHは、「日本を明るく、元気にする」というビジョンのもと(TORCHは日本語で「たいまつ」=「灯り」)、日本の地域の魅力も発信しています。
この中で、復興支援をはじめ、前述の新型コロナウイルス感染症の収束の願い、そして福島県との連携の証として巨大赤べこの設置に至りました。

ちなみに、この赤べこの淡い赤銅色は、TOKYO TORCHのテーマカラーが「チャレンジし続ける情熱、炎そのものを想起させながらも、日本で古くから建築物に使用されてきた銅」であることに由来しています。
福島で古くから愛されてきた赤べこが、新たな装いで東京の玄関口に登場しました。
東京駅にお立ち寄りの際には、一度愛でてみてはいかがでしょうか。

<最後に>
この巨大赤べこは、福島県と東京をつなぐ新たなスポットとなりました。
この企画で紹介してきた上野の野口英世像や松平定信の浴恩園のように、過去をさかのぼるだけでなく、未来に続くつながりが生まれることも再発見といえるかもしれません。
※巨大赤べこの設置については、令和5年11月30日の情報です。予告なく変更になる場合がありますので、ご注意ください。

赤べこの写真
淡い赤銅色の巨大赤べこ

建物写真
TOKYO TORCH。右が常盤橋タワー

【関連URL】
・三菱地所株式会社HP 「TOKYO TORCH」
https://office.mec.co.jp/tokiwabashi/
・柳津観光協会HP 「赤べこ伝説」
https://aizu-yanaizu.com/feature/akabeko-legend/

銀座の冬の風物詩? オレンジ色に染まる紙パルプ会館 

ふくしまの冬の味覚といえば、「あんぽ柿」ではないでしょうか。
あんぽ柿は、干し柿の一種ですが、一般的なものとは違い、見た目は鮮やかなオレンジ色、中身はトロリと柔らかいゼリー状です。

これを可能にしているのが、先人が米国から持ち込んだ硫黄くん蒸の技術であり、大正時代に福島県北部の伊達市梁川町五十沢(やながわまちいさざわ)地区において現在のあんぽ柿が誕生し、令和4年(2022)に出荷100周年を迎えました。

このあんぽ柿、実は銀座の冬の風物詩にもなっています。
平成27年(2015)以降、冬の訪れとともに、銀座の紙パルプ会館前に柿ばせ(柿を吊るして干す施設)が設置され、本物のあんぽ柿が吊るされています。
この様は、まるでオレンジ色のカーテンのようです。

この柿ばせは、伊達市役所とNPO法人銀座ミツバチプロジェクトによって設置されています。

銀座ミツバチプロジェクトは、平成18年(2006)に銀座周辺で働く有志が集まり、ビルの屋上でミツバチを飼う活動からスタートしました。
現在は、屋上の養蜂場見学や採蜜体験、出前授業を通じて、子どもたちに環境や食べ物の大切さを伝える活動にも広がっています。

「ミツバチがあんぽ柿?」と首を傾げるところですが、このきっかけは伊達市職員の名刺でした。

平成27年(2015)、伊達市の職員が銀座ミツバチプロジェクトを訪問した際、名刺に載っていたあんぽ柿が担当者の目に留まり、あんぽ柿の生産者が風評被害に苦しんでいること、先人が苦労して生産技術を確立したあんぽ柿が地域の誇りであることを知って、「あんぽ柿を銀座に吊るしてみよう」という提案が生まれました。

今では12月になると、伊達市から生産者を紙パルプ会館に招待し、皆が一同に集まって手作業で柿の皮をむき、柿ばせに吊るして干した上で、1月には収穫も行っています(今年の展示は1月18日まで)。

銀座できらめくあんぽ柿、ひとつひとつがオレンジサファイアのように輝いて見えます。

福島県伊達市であんぽ柿が誕生し、たくさんの人に愛されて100年。次の100年もめいっぱい愛されますように。

<最後に>
銀座をぶらぶら散歩することを「銀ブラ」と呼びますが、この言葉もあんぽ柿誕生と同じ大正時代に生まれたそうです。
銀ブラであんぽ柿を見上げれば、大正ロマンを感じられるかもしれません。

吊るされるあんぽ柿

つるされるあんぽ柿2
紙パルプ会館前のあんぽ柿

【関連URL】
・銀座ミツバチプロジェクトHP
https://gin-pachi.jp/

【参考】
・伊達市 市政だより(2022年分) 12月号
https://www.city.fukushima-date.lg.jp/soshiki/5/54000.html

浅草寺に“日本のナイチンゲール” 福祉の母・瓜生岩子像

浅草は、東京で最も日本を感じられる場所といっても過言ではありません。風神・雷神がある雷門をくぐり、観光客でにぎわう仲見世通りを抜けて、浅草寺にたどり着くまでの道のりを多くの人が体験したのではないでしょうか。
実は、この有名な浅草寺の一角、本堂西側の新奥山(しんおくやま)と呼ばれる場所に、日本のナイチンゲールと称される瓜生岩子(うりゅう いわこ)の像がたたずんでいます。

瓜生岩子は、文政12年(1829)、現在の喜多方市にあたる耶麻郡熱塩村(やまぐんあつしおむら)に生まれ、今日の日本の社会福祉の礎を築きました。
会津の戊辰戦争の戦乱では、敵味方関係なく傷の手当を施し、戦死者に花を手向けました。これには、敵軍の大将であった板垣退助も感銘を受けたほどでした。

明治に入ってからも、教育が受けられない子供のために私財で学校を設立、生活困窮者のために無料で医療を受けられる病院を建設するなど、苦しむ人たちのために生涯を捧げました。
その功績が認められ、公益に尽くした人物に与えられる藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を女性で初めて受章しました。

浅草の岩子像は、本人死没後の明治34年(1901)、実業家の渋沢栄一らによって現在の場所に建立されます。
渋沢栄一は自身が院長を務める養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)に岩子を世話役として招へいするなど、福祉の志を同じにしていました。
その絆の強さは、銅像の建設委員長を務めたことからもうかがえます。

女性活躍の少なかった時代に、強い意志を持ち、苦しむ人たちのために尽くし続けた瓜生岩子の慈悲深さは、ひっそりとたたずむ銅像の優しい眼差しからも感じ取れるかもしれません。

<最後に>
瓜生岩子像建立の発起人の一人に板垣絹子という人物がいますが、彼女が瓜生岩子に感銘を受けた板垣退助の妻であったと聞くと、また感慨を覚えてしまいます。
浅草寺にお参りの際には、瓜生岩子像にも立ち寄ってみてください。

岩子像
浅草寺 新奥山にある瓜生岩子像
浅草寺
たくさんの観光客でにぎわう浅草寺

【関連URL】
・喜多方市役所HP「社会福祉の母 瓜生岩子」
https://www.city.kitakata.fukushima.jp/site/iwako/
・浅草寺公式サイト
https://www.senso-ji.jp/guide/guide19.html

【参考】
・喜多方市役所リーフレット 「瓜生岩子のおはなし」
・公益財団法人渋沢栄一記念財団 デジタル版「渋沢栄一伝記資料」

清澄白河、やっぱり白河 受け継がれた松平定信の意志

東京の地名や駅名は、新宿、渋谷、池袋と全国区のものが多く、名前を眺めるだけで旅行気分を味わえますが、福島県出身者からすると、一瞬「あれ?」と思うものがあります。
それが「清澄白河(きよすみしらかわ)」です。
皆さんの想像どおり、この名前は福島県白河市、そして白河藩主・松平定信に由来します。

清澄白河は、東京東部の江東区にある清澄と白河という地域を含めたエリアの通称です。
また、このエリアにある地下鉄の駅名でもあります。
名勝地の清澄庭園をはじめ、風情のある街並みを持ちながら、近年では、東京都現代美術館を中心にアートが集まるカルチャータウン、日本に初めてサードウェーブコーヒーが到来したコーヒーの聖地としても注目を集めています。

白河の地名は、この地域にある霊厳寺(れいがんじ)に白河藩主・松平定信の墓所があることに因んで、昭和7年(1932)に新たに命名されました。
しかし、この名前にならなかった未来もあったのです。

元々、この一帯は霊厳町という地名で、関東大震災の区画整理に伴い、大工町と改称される予定でしたが、「霊厳という地名は、由緒があり、また霊厳寺には東京の恩人である松平定信が眠っているため残してほしい」と要望する人物が現れました。前回の記事にも登場した渋沢栄一です。

渋沢栄一は松平定信に崇敬の念を抱いていました。
松平定信の百回忌にあたり、遺徳顕彰会を創立するとともに、その趣意書に「東京の恩人として敬うべきは、明治天皇、太田道灌、徳川家康。
次いで、松平定信は忘れてはいけない一大恩人」と表現するほどでした。
この理由は、「寛政の改革」で江戸の困窮者を救済するため、松平定信が設けた「七分積金(しちぶつみきん)」という積立制度に垣間見ることができます。
渋沢栄一は、この制度によって積み立てられた170万両(現在価値で約1,000億円)ともいわれる積金の活用を東京府知事から任され、営繕会議所(現在の東京商工会議所)をつくり、明治維新の混乱の最中、公共事業を通じて東京の生活を支えました。

結局、霊厳の地名は消えてしまいましたが、渋沢栄一の松平定信への敬意が白河の地名にかたちを変えて残ることになりました。
清澄白河は、単に松平定信の墓所に因んだ名前というよりも、松平定信の意志と渋沢栄一の敬意が結びついて生まれた名前といえるかもしれません。

<最後に>
「白河」だけでなく、「清澄」の地名も弥兵衛という人物に由来します。
地名を調べて、その街を歩くと、思いがけない物語に出会えるかもしれません。

駅看板
清澄白河駅の掲示板
霊厳寺
霊厳寺内の松平定信の墓所

【関連URL】
・白河市役所HP 「広報しらかわ連載 -渋沢栄一×松平定信 南湖を彩る系譜-」
https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/dir007792.html

【参考】
・公益財団法人渋沢栄一記念財団 デジタル版「渋沢栄一伝記資料」

花咲かす 赤坂サカス 三春滝桜の子孫樹

桜の開花予想のニュースを耳にすると、春の訪れを実感します。東京で暮らしていると、靖国神社にあるソメイヨシノの標本木の開花宣言がいつかになるか気になります。
福島県にも数多くの桜の名所がありますが、中でも日本三大桜に数えられる「三春滝桜(みはるたきざくら)」は、特にその見頃が気になります。

三春滝桜は、福島県の中央部・三春町にあるエドヒガン系の紅枝垂桜(べにしだれざくら)で、樹高13.5m、東西と南北に枝が20m以上広がる日本最大級の巨木です。樹齢1,000年超ともいわれ、大正11年(1922)には国の天然記念物に指定されました。悠々とそびえ立つ様はまさに圧巻で、神秘的な美しさに魅了されます。

実はこの滝桜、東京の赤坂でも眺めることができます(正確には、滝桜の子孫樹(子供)ですが)。
赤坂サカスは平成20年(2008)にオープンした複合商業施設で、Tbs本社があることでも知られています。赤坂サカスという名前には「桜を咲かす」という意味があり(他に「坂が多い」という意味も)、エリア内には約100本の桜が植えられています。
この中で、滝桜の子孫樹はシンボルツリーに選ばれています。

さらに、この赤坂サカスには、もうひとつ滝桜があります。「ザ・フォール」で知られる現代の日本画家・千住博(せんじゅ ひろし)氏の壁画「四季樹木図」です。
赤坂駅の3番出口方面の改札近くにあり、春は桜、夏は竹林、秋はイチョウ、冬は静かに眠る森の樹木と、日本の美しい四季が描かれています。ここに描かれている桜が滝桜で、壁画との関係から、赤坂サカスに滝桜の子孫樹が植えられるに至りました。

千住氏は、この壁画への寄稿で、「実際の桜を見て、絵の桜を見る。実際のイチョウを見て、絵のイチョウを見る。そんな風に現実と絵を行き交う毎日を過ごせる人々を、私は幸せだと思います」と述べています。千住氏は滝桜に魅せられたのか、複数の滝桜の作品を残しています。

滝桜の子孫樹は、他にも隅田公園はじめ東京各地で眺めることができます。子孫樹は交配によってできた種子を発芽させて育てるため、三春の滝桜本体とは多少なりとも遺伝的に違いが生じますが、親と子が似ながらも違う人間であるように、子孫樹それぞれに個性が宿るようで趣を感じてしまいます。

<最後に>
ソメイヨシノは接木によって繁殖するため、全国すべてのものがクローン(遺伝的に同一)であり、地域や気候の条件が同じであれば、一斉に咲き始めるといわれます。子孫樹とは違いますが、これにもまた面白さを感じます。

三春滝桜の子孫樹
赤坂サカスの広場にある三春滝桜の子孫樹(2024年3月21日撮影)

千住博氏による壁画
赤坂駅改札近くにある「四季樹木図」

【関連URL】
・三春町HP「三春滝桜とは」
https://www.town.miヘクタールru.fukushima.jp/soshiki/7/02-0101setumei1.html
・赤坂サカスHP「桜マップ」
https://www.tbs.co.jp/sacas/img/sakuramap.pdf

熱狂を彩った47都道府県の軒庇 千駄ヶ谷の国立競技場

日本人選手の活躍が記憶に新しい「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会」。
新型コロナウイルス感染症の影響により、東京都をはじめ1都3県では、奇しくも無観客開催となりましたが、トップアスリートの活躍に熱狂したあの夏は忘れられないものではないでしょうか。そして、この主な舞台が千駄ヶ谷にある国立競技場でした。

国立競技場は、かつて「東京オリンピック1964」の舞台になりましたが、東京2020大会に向けて建替工事が始まり、令和元年(2019)に完成しました。スタジアム全周が木材で覆われた外観は、街行く人の目を引きながらも、木の温もりがあり、周辺にある明治神宮外苑の自然・文化と調和しているように見えます。

実際、建築家・隈研吾(くま けんご)氏によるこのデザインは、「杜のスタジアム」のコンセプトを掲げ、自然に開かれた日本らしいスタジアムを表現したものでした。とりわけ、外周に設置された3層の軒庇(のきびさし)は、新しい国立競技場を強く印象付けています。

この軒庇には、福島県を含め、全国47都道府県から調達された木材が使われています。
木材はスギ(沖縄のみリュウキュウマツ)が採用され、スタジアムの北側に北海道・東北産、南側に九州・沖縄産と、その方位に応じて全周に配置されました。

福島県産の木材は、北側の千駄ヶ谷ゲート近辺に位置しています(詳しくは関連URL「国立競技場の軒庇」から。柱番号をもとに探してみてください)。
また、エントランスゲートの軒も、北側・東側ゲートでは東日本大震災で被災した岩手県・宮城県・福島県、南側ゲートでは熊本地震で被災した熊本県の木材が使用されています。まさに、「復興五輪」を掲げた大会に相応しいメインスタジアムとなりました。

福島県にあるサッカー施設「Jヴィレッジ」から聖火リレーがスタートした東京2020大会。桜ゴールド色のトーチを掲げたランナー約1万人が47都道府県を巡って、聖火台のある国立競技場まで聖火をつなぎました。
開会式のクライマックスでは、最終ランナーの大坂なおみ選手が聖火台に点火し、開幕を告げる花火が打ち上がった瞬間、夜空とスタジアムが一斉にオレンジ色に包まれました。全国から集結した軒庇も、皆がひとつになるこの瞬間を待ち望んでいたのではないでしょうか。

<最後に>
隈研吾氏は、福島県浜通りに位置する浪江町の駅周辺施設のデザインを手がけることが発表されています。国立競技場が周辺の雰囲気を醸し出しているように、隈氏のデザインが浪江のまちづくりにどのように波及していくのか期待に胸が膨らみます。

国立競技場
「杜のスタジアム」がコンセプトの国立競技場

軒庇
47都道府県の木材が使用された軒庇

【関連URL】
・独立行政法人日本スポーツ振興センターHP「国立競技場の軒庇」
https://www.jpnsport.go.jp/kokuritu/Portals/0/kokuritu/project-summary/nokibisashinitsuite.pdf

円谷幸吉が駆け抜けた軌跡 調布のオリンピックマラソン折返点

昭和39年(1964)10月21日13時。曇天の下、号砲が鳴り響き、各国の代表選手が千駄ヶ谷の国立競技場(当時は国立霞ヶ丘競技場)から一斉に飛び出し、42.195kmの道程に挑みました。このスタートから約2時間後、日本中に栄光と歓喜をもたらす一人の男性がいました。彼の名は、円谷幸吉(つぶらや こうきち)です。

円谷幸吉は、昭和15年(1940)に現在の福島県須賀川市に生まれました。厳しい父にしつけられて育ち、高校生のときに陸上競技にのめり込みます。その後、努力と才能が結実し、1964年東京オリンピックの男子マラソン代表選手に選ばれました。

1964東京大会のマラソンは、東京の日本橋から山梨県へと向かう甲州街道が主な舞台でした。国立競技場を出て、新宿で甲州街道に入り、ひたすら西に向かって、調布市飛田給で折り返し、国立競技場に戻ってくるというコースでした。

今となっては、飛田給はサッカーJリーグの試合も開催される「味の素スタジアム」が有名ですが、当時は交通量も少なく、物寂しい場所でした。しかし、日本で初めて開催されるオリンピックが間近で見られるとあって、マラソン競技当日は当時の調布市の人口を超える15万人もの観客が沿道に押し寄せました。

円谷選手はこの声援に後押しされ、折返し地点を5位で通過します。その後も順位を上げ、国立競技場に戻ったときには2位に着けていましたが、そのすぐ後ろにはイギリスのヒートリー選手が迫っていました。勝負はトラックレースに持ち込まれ、最後の駆け引きという場面になりましたが、円谷選手は「男たるもの、後ろを振り向いてはならぬ」という父の教えを守り、前だけを見つめ、ゴール目掛けてひたむきに走りました。

惜しくも、ゴール直前で追い抜かれはしましたが、自己ベストの2時間16分22秒8で、堂々の3位となり、銅メダルを獲得しました。この銅メダルは1964東京大会の陸上競技で日本人選手が獲得した唯一のメダルとなり、円谷選手はこの大会の陸上競技で国立競技場に日の丸を掲揚した唯一の日本人選手となりました。

また、この栄光はもとより、歯を食いしばり、息を切らして、限界の先に挑み、ひたむきに駆けるその真摯な姿が、日本人の心を強く打ちました。メダリストであることに加え、円谷幸吉が今なお愛される所以がここにあるのではないでしょうか。

<最後に>
このドラマのあった折返し地点には、現在では「1964 TOKYO マラソン折返し地点」と刻まれた記念碑が設置されています。この記念碑の存在を横目に、多くの市民ランナーが甲州街道沿いを走り抜けていく景色が今では日常になりました。これもまた、“つわものどもが夢の跡”でしょうか。

調布のオリンピックマラソン折返点
オリンピックマラソン折返点記念碑と味の素スタジアム

折返点の標識と甲州街道
折返点を示す標識と甲州街道

【関連URL】
・須賀川市HP「円谷幸吉を知る」
https://www.city.sukagawa.fukushima.jp/bunka_sports/sports/1007812/index.html

古関裕而が送るエール 早稲田大学応援歌「紺碧の空」歌碑

真夏の炎天下、甲高い打球音とともに、緑の芝生を勢いよく転がる白球。土埃を立ち上げながら、本塁に突入する走者。選手のガッツポーズにスタンドは大歓声。相手側のスタンドの応援にも力が入り、球場がより一層熱を帯びていく…。
このような高校球児が捧げる青春の風景に音楽をつけるとしたら、「栄冠は君に輝く」ではないでしょうか。この作曲者であり、野球殿堂入りも果たした人物が福島市出身の古関裕而(こせき ゆうじ)です。

古関裕而氏は、NHK朝の連続テレビ小説「エール」で主人公のモデルになったことが記憶に新しいところです。古関氏は、「君の名は」、「長崎の鐘」、「オリンピック・マーチ」等、生涯で5,000曲もの作曲を手掛け、日本の音楽界にいくつもの不滅のメロディを残しました。
そのジャンルは多彩でしたが、中でも、スポーツ音楽とは切っても切れない関係で、初めての代表曲も昭和6年(1931)の早稲田大学応援歌「紺碧の空」でした。古関氏がまだ無名の新進作曲家の頃でした。

私学の雄である早稲田大学と慶應義塾大学は永遠のライバルと称され、スポーツ競技においては、“早慶戦(または慶早戦)”で競い合ってきました。当時の野球部の早慶戦では、慶應のアップテンポな応援歌「若き血」に気圧されてしまい、早稲田は慶應に勝てない時期が続き、新しい応援歌に期待を寄せていました。

そこで、古関氏と同じ「コロムビア三羽ガラス」である伊藤久男(いとう ひさお)氏の従兄弟が早稲田の応援部に在籍していた縁があり、早稲田は古関氏に作曲を依頼することになりました。
応援歌は、歌詞が先につくられ、大学内で公募されました。当時学生の住治男(すみ はるお)氏の作品が選ばれ、あまりの出来栄えに選考した大学教授が一字も修正しない程でした。一方で、「終盤の“覇者、覇者、早稲田”の歌詞にメロディを当てることが難しく、大作曲家でないと完成は難しいだろう」という評価でもありました。
古関氏本人も作曲にあたっては苦労したようですが、さすがは後の国民的作曲家、見事に完成に至ります。

この応援歌が選手を奮い立たせたのか、早稲田が勝利を飾るようになり、「紺碧の空」も世間に知れ渡りました。当時は第六応援歌でしたが、歌い継がれ、現在では第一応援歌に位置付けられています。昭和51年(1976)には、「紺碧の空」45周年を記念して、早稲田大学の大隈会館前に歌碑が設立されました。

後に、古関氏は慶應義塾大学にも応援歌の「我ぞ覇者」を作曲しています。ライバル両者への応援歌提供は、古関氏の両者へのエールであり、フェアな精神に基づいていたように感じます。
今や、どちらの大学も、学生やOB・OG関係なく肩を組んで、各々の応援歌を高らかに歌い、選手たちにエールを送っています。自分のエールが誰かのエールになるこの景色こそ、古関氏が最も望んだものであったのかもしれません。

<最後に>
古関裕而氏は、プロ野球界の永遠のライバルである巨人と阪神にも、それぞれ「闘魂こめて」と「六甲おろし」を提供しています。ライバル関係の間に入って、フェアでいることは、勇気が要りそうです(古関氏の本名が“勇治”だから、勇んで治めたのでしょうか…)。

紺碧の空歌碑
早稲田大学内にある「紺碧の空」歌碑(早稲田のイニシャルWのように見える?)

早稲田キャンパス
早稲田大学のキャンパス

【関連URL】
・福島市古関裕而記念館HP 
https://www.kosekiyuji-kinenkan.jp/

【参考】
・古関裕而「鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝」(集英社文庫)

それは純愛の果てに 品川のゼームス坂 智恵子の最期・レモン哀歌の碑

「本当の空はどこにあるの?」と聞かれると、誰もが戸惑うでしょうが、なぜか福島県の多くの人はすんなりと答えることができます。「安達太良山(あだたらやま)の上にある」と。

詩人で彫刻家の高村光太郎が著した詩集「智恵子抄」に、“東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ ~中略~ 阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に毎日出てゐる青い空がほんとの空だといふ”といった節が出てきます。これは、光太郎の妻であり、詩集の題名にもなっている、洋画家で紙絵作家の高村智恵子(たかむら ちえこ)がこぼした言葉でした。彼女の言葉は、県民に深く根付くようになりました。

高村智恵子は、明治19年(1886)、現在の二本松市に生まれました。造り酒屋の長女として不自由なく暮らし、高校卒業後には上京して日本女子大学校に入学します。在学中に油絵に興味を持ち、親の反対もありながら東京に残って、洋画家の道を目指します。その後、光太郎と出会い、芸術を志す同士として交流が深まり、数年後には同棲を始め、二人で芸術に精進していくことになります。

しかし、智恵子にとって、東京の暮らしは決して良いものではなかったようです。

“東京には空が無い”と吐露したように、東京の空気は無味乾燥で、どうしても馴染むことができませんでした。二人の生活は金銭的にも困窮し、また自信を持って出品した油絵が落選、ついぞ自身の芸術に絶望してしまいます。

加えて、智恵子には統合失調症の兆しが表れ、いよいよ病状が深刻になると、南品川にあった精神病院「ゼームス坂病院」に入院してしまいます。病院で3年半以上を過ごし、家に戻ることなく、52歳で生涯を終えました…。

ここで筆を止めてしまうと、智恵子の人生は絶望であったかのように映ってしまいますが、このゼームス坂病院でひとつの奇跡に出会います。

智恵子は、心の病には手作業が良いという勧めもあって、病室で紙絵の創作を始めます。最初は鶴の折紙でしたが、紙燈篭等、その形に段々と意匠を凝らしていき、ハサミを使った切り紙にまで昇華しました。また、油絵では色彩について苦悩したものの、紙絵を始めてからは色彩への希求が強くなり、いくつもの色紙を求めるようになりました。

智恵子はすっかり夢中になり、毎日を紙絵に捧げます。完成した紙絵は一つ一つが確かな芸術作品で、最終的に千数百枚に及ぶ作品群が生み出されました。そして、これらの作品は誰にでも見せるものではなく、唯一、夫である光太郎にだけ見せるものでした。作品ができるたび、智恵子は恥ずかしがりながらも嬉しそうに光太郎に紙絵を見せていました。それはまるで、ラブレターを渡す少女の姿であったのかもしれません。

このように、晩年は、絶望したはずの芸術に対し、新たな萌芽が生まれ、刹那的に開花した時間であり、また、共に芸術を志した光太郎と再び邂逅し、生涯を終える最期まで愛を綴った時間でもありました。

 

ゼームス坂病院の跡地には、智恵子の最期を詠んだ「レモン哀歌」の詩碑が設けられています(平成7年(1995)建立)。筆者が碑を訪問した際、碑前に供えられたトパアズ色の香り立つレモンが目に飛び込んできました。

光太郎が「智恵子は、東京においても、新鮮で透明な自然への要求をいろいろな方法で満たしていた。死ぬ数時間前に持参したレモンもこの喜びにつながるものであったろう」と回想したとおり、このレモンを供える行為は、空が無い東京において、智恵子が故郷の“ほんとの空”を感じる手段なのかもしれません。

そう、「レモン哀歌」の結びにあるように、“写真の前に挿した桜の花かげに すずしく光るレモンを今日も置かう”と。

レモン哀歌の碑
ゼームス坂病院跡地にある「レモン哀歌」の碑 (レモンが供えられている)

ゼームス坂
英国人ジョン・M・ジェームスにちなむゼームス坂

【関連URL】
・二本松市HP「高村智恵子」
https://www.city.nihonmatsu.lg.jp/kankou/midokoro/kankou_guidemap/adachi/takamura/

【参考】
・高村光太郎「智恵子抄」(新潮文庫)

まぼろしの空中都市 大髙正人らの新宿副都心計画

都心と副都心。似た言葉ですが、都心は首都機能を持つ霞ヶ関や丸の内等を、副都心(特に3大副都心)は新宿・渋谷・池袋を指します。実際に東京メトロの副都心線は、この3つの都市を縦断する路線になっています。中でも、新宿副都心には、人工土地を築き、新宿駅を覆う空中都市さながらの計画がありました。それが新宿副都心計画、建築家・大髙正人(おおたか まさと)らによる提言でした。

大髙正人は大正12年(1923)に福島県三春町に生まれます。福島中学校(現・福島高等学校)を経て、東京大学工学部の建築学科を卒業、その後、前川國男建築事務所に入所し、福島県教育会館や上野にある東京文化会館等を担当します。とりわけ、大髙正人の真骨頂は、単一の建築作品というよりも、都市デザインやまちづくりであったようで、新宿副都心計画はその先駆けでもありました。

新宿副都心は新宿駅西口一帯のエリアであり、現在では、東京都庁舎をはじめ、200m級の高層ビル群が屹立したオフィス街になっていますが、昭和40年(1965)まで、この一帯には広大な淀橋浄水場が設置されていました。新宿副都心の地形に高低差が多いのは、浄水場の構造の名残です。
この淀橋浄水場の一帯は、都心への一極集中を緩和するため、都心の機能を分担させるかたちで、新宿副都心計画が構想され、再開発が進められました。

この再開発とその話題性に目を付けた大髙正人と、同じく建築家の槇文彦(まき ふみひこ)は、昭和35年(1960)に日本初の国際的なデザイン会議で独自の新宿副都心計画を披露します。当時、この2人は、“新陳代謝”をテーマとし、社会の成長や変化に呼応する建築運動を展開するグループに所属していました。
この計画は、大胆にも、新宿の上空に強靭なコンクリートの“人工土地”を築くものでした。計画では、新宿駅をまたぐかたちで、西口の淀橋浄水場から東口一帯にまで、一面の人工土地を建設し、その上に新たな空間を立ち上げるものでした。これは狭あいな都心部において、土地を有効活用する手段でもありました。

提言は実現には至りませんでしたが、この経験は、大髙が昭和37年(1962)に独立した後に、香川県の坂出人工土地等の設計で実を結びます。また、多摩ニュータウン・マスタープランやみなとみらい基本計画といった都市デザインの極北に向かうものでもありました。

なお、新宿副都心は、昭和46年(1971)の京王プラザホテル建設を皮切りに、高層ビルが建ち並んでいき、平成3年(1991)に東京都庁舎が丸の内から新宿に移転したことで、現在の姿に落ち着きました。

新陳代謝を繰り返す東京では、新たな構想で、新たな建築が生まれ、新たな未来都市が実現していきます。
1000年後の東京は、50年以上前に建築家が夢見たように、本当に空に浮かんでいるのかもしれません。

<最後に>
大髙正人は、県内では、福島県立美術館、三春交流館まほら等も設計しています。
個々の建築物を鑑賞するだけではなく、その建築物が周りの街、人、自然にどのような調和を生み出しているか想像してみてはいかがでしょうか。

東京都庁舎
新宿副都心のシンボルのひとつ・東京都庁舎
新宿副都心
高層ビルが建ち並ぶ新宿副都心

【関連リンク】
・福島県立美術館HP 
https://art-museum.fcs.ed.jp/

・三春交流館まほらHP
https://www.town.miharu.fukushima.jp/soshiki/28/

【参考】
・箕原敬、松隈洋、中島直人「建築家 大髙正人の仕事」(エクスナレッジ)
・第1回西新宿地区再整備方針検討委員会資料「西新宿地区の成り立ち」
・文化庁監修「PAU 大髙正人の方法 建築と社会を結ぶ」(文化庁)
・文化庁Youtubeチャンネル「オーラルヒストリー槇文彦 大髙正人との出会い」
https://www.youtube.com/watch?v=VCxtFEkZNg0
(この動画内では、大髙正人らの新宿副都心計画のイメージ図を確認することができます)

極彩色の到達点 日本橋三越に降り立った天女像

“東京のオシャレな街でのショッピング”は、地方出身者にとって、ひとつの憧れかもしれません。福島県のアンテナショップ「日本橋ふくしま館MIDETTE」がある日本橋周辺にも百貨店が立ち並んでいますが、百貨店の名前を冠した駅もあります。「三越前駅」の日本橋三越本店です。

三越本店は本館正面玄関にあるライオン像が特に有名ですが、本館に入って中央ホールにたどり着くと、吹き抜け4階部分にまで達する高さ10m超の極彩色の木彫像が目に飛び込んできます。この作品は、天女像(「天女」と書いて、「まごころ」と読みます)と名付けられ、天女が瑞雲に包まれて降下し、花芯に降り立つ瞬間の姿を表しています。彫刻家・佐藤玄々(さとう げんげん)によって生み出されました。

佐藤玄々は、明治21年(1888)に相馬市の宮彫師(みやぼりし)の家に生まれました。宮彫とは、神社仏閣等の建築物に装飾として施す彫刻を指します。玄々は、幼い頃から家業に馴染み、家族から木彫りの技術を学びました。その後、上京して近代彫刻界の重鎮に師事、フランス留学でも世界的巨匠に師事するとともに、本名の清蔵(せいぞう)から、朝山(ちょうざん)、玄々と雅号を重ねていきます。

佐藤玄々の著名な作品に、皇居外苑にある「和気清麻呂像」があります。この銅像の建立は、紀元2600年記念行事の一環でしたが、制作コンペには、長崎の平和公園にある「平和祈念像」を制作した北村西望(きたむら せいぼう)、作品だけでなくアトリエの「朝倉彫塑館」でも知られる朝倉文夫(あさくら ふみお)とそうそうたる顔ぶれが並んでいたことからも、玄々の力量を垣間見ることができます。

天女像は、株式会社三越創立50周年に向けて、当時の三越社長の岩瀬英一郎が佐藤玄々に依頼したことから制作が始まりました。京都の妙心寺にあるアトリエにこもって、樹齢500年の大木を使い、多くの門下生とともに制作に取り掛かります。10m超の大作とあって、アトリエには足場が組まれ、玄々は双眼鏡を使いながら細部まで指示するほどでした。

当初は数年で完成の予定でしたが、工期が延びに延び、また予算も膨らみ続け、約10年の歳月を経て、昭和35年(1960)に完成に至ります。まさに玄々の心血が注がれた畢生(ひっせい)の大作となりました。完成を待ち続けた三越の胆心にも驚きます。

天女像の除幕式では、岩瀬社長、作家の武者小路実篤らの挨拶に続き、佐藤玄々が登壇して、「私が佐藤であります」の一言だけ発して降壇し、これに参列者は感銘を受けたとされています。

天女像は幾重にも形容や解釈ができますが、玄々の一言のように、説明しすぎる必要は無いのかもしれません。実際、この像の前に立つと、言葉無く、神様や仏様に祈るように手を合わせたくなってしまいます。

<最後に>
県内の国道4号線等で見かける「東京からの距離○○km」にも日本橋とのつながりがあります。江戸時代に日本橋が五街道の起点になった名残があり、道路標識の「東京まで(から)の距離」は、日本橋との距離(正確には日本橋に設置された「日本国道路元標」)になっていることが多いようです。

天女像
佐藤玄々作の天女像(まごころ像)

天女像全体
日本橋三越本店の中央ホール(裏にはパイプオルガンも)

【関連リンク】
・相馬市HPデジタルミュージアム「相馬市歴史資料収蔵館」
https://www.city.soma.fukushima.jp/kankosite/bunka/digital/syuuzoukan/index.html

・日本橋三越本店HP「日本橋三越の歴史再発見」
https://www.mistore.jp/store/nihombashi/column_list_all/nihombashi_history/index.html

【参考】
・MITSUKOSHI 三越公式YouTubeチャンネル「日本橋三越 『中央ホール、天女像』」
https://www.youtube.com/watch?v=wVVEn6uTPYo

悲喜交交の会津藩主 四谷荒木町に生誕した松平容保

“先の戦争”といえば、世間では第二次世界大戦を連想しますが、会津の人々は、何かを申し合わせたように、戊辰戦争だと答えることがあります。この戊辰戦争は、明治元年(1868)に勃発した、新政府軍と旧幕府軍による日本近代史最大の内戦でした。

会津では、鶴ヶ城での篭城戦の末、薩摩藩・土佐藩が中核となった新政府軍に対して、会津藩を筆頭にした旧幕府軍は敗れ、飯盛山での白虎隊の悲劇も生まれました。この激動の瞬間に、会津藩主を務めたのが松平容保(まつだいら かたもり)でした。

松平容保といえば、学校の教科書にもあるように、幕末の動乱に京都守護職として活躍したことで知られています。
意外かもしれませんが、容保の生まれは東京都新宿区の四谷荒木町です。四谷荒木町は、明治時代には「お江戸の箱根」と呼ばれたほど風光明媚な街並みがあり、現在では小料理屋や居酒屋がひしめき合い、入り組んだ路地裏にはノスタルジーを感じることができます。

容保が生まれた天保6年(1836)は、この荒木町一帯に美濃国高須藩(現在の岐阜県にあった藩)の松平摂津守家の上屋敷があり、容保は当時の高須藩主の六男でした。容保が12歳のときに、会津藩主であった会津松平家の養子となり、現在は皇居外苑の和田倉噴水公園となっている会津藩上屋敷に迎えられ、会津の精神を体得していきました。この会津の精神のひとつに、「徳川家に忠勤、忠義を尽くさなければならない」というものがあり、後に容保の運命を大きく左右することになります。

その後、容保は、17歳で初めて会津に入り、前代の逝去に伴い18歳の若さで会津藩主となります。

会津藩主となってからは、幕末期の京都の治安を回復すべく、幕府から京都守護職の打診があり、何度か固辞しますが、会津の精神を持ち出され、損な役回りだと認めつつ奉命を決心します。京都での活躍ぶりには、当時の孝明天皇からの信頼も厚かったものの、王政復古の大号令により守護職が廃止、鳥羽・伏見の戦い以降は新政府軍と旧幕府軍の立場が逆転し、ついに会津藩は朝敵(朝廷の敵)とされ、賊軍という汚名まで着せられてしまいます。

幕府や朝廷に仕えることが会津の精神的支柱であったことを考えれば、容保や会津藩の武士らの心中は察するに余りあるところです。会津にとって戊辰戦争は、武士として、そして会津人としての誇りを守り抜くための戦いであったのかもしれません。

最晩年、容保は病気療養中に、孝明天皇の妃であった皇太后から、滋養のためと当時は贅沢品の牛乳が贈られます。皇太后は牛乳の匂いが苦手な容保を慮って、香料を加えるよう指示し、医師が牛乳にコーヒーを混ぜ、容保はそれを感涙にむせびながら飲んだといわれています。

松平容保は“悲劇の会津藩主”という文脈で語られますが、この逸話も踏まえれば、容保の人生は、苦いコーヒーと甘い牛乳が混ざり合わさったように、悲喜交交としたものであったのかもしれません。

<最後に>
松平容保の終焉も、生誕と同じく東京の地です。場所は文京区の旧第六天町(現小日向)ですが、容保の痕跡を残すものは何もありません。同じ旧第六天町には、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜 終焉の地もあります。時代に翻弄され、袂を分かった二人が終焉の地を同じにするのも歴史の不思議を感じるところです。

津の守
松平摂津守家の上屋敷の名残がある地名(摂津守=津の守)

策の池
四谷荒木町にある策の池(近くの荒木公園には上屋敷跡の説明板もあります)

【関連リンク】
・会津若松市HP「会津と新選組~幕末の会津と新選組の歴史を紐解く~」
https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2022111600014/

・一般財団法人会津若松観光ビューローHP「鶴ヶ城」
https://www.tsurugajo.com/tsurugajo/

“蛙の詩人”が定住した東村山 草野心平の「光あまねしの碑」

「かえるのうたが きこえてくるよ」(*1)

日本人なら誰もが口ずさんだことのあるメロディと歌詞。次に続く「クワクワ」や「ケケケケ」が、蛙の鳴き声を表現していることは想像に難くありません。では、次はどうでしょう。

「るてえる びる もれとりり がいく。ぐう であとびん むはありんく るてえる。」(*2)

一見では理解ができず、またどれほど思慮を巡らせても理解不能だと思われます。なぜなら、これは“蛙の詩人”が詠んだ蛙語だからです。この詩人とは、晩年に文化勲章も授章するいわき市出身の草野心平(くさの しんぺい)です。

草野心平は、5人兄弟の次男として明治36年(1903)に生まれますが、家族は上京し、彼だけ地元の祖父母に預けられ、自然に囲まれて育ちます。その後、磐城中学(現・磐城高等学校)を中退、慶應義塾普通部に編入するもまた中退と紆余曲折を経て、中国の大学に留学します。この留学時に兄の遺した詩に影響を受け、詩作にのめり込みます。

昭和3年(1928)には、活版印刷として初の詩集「第百階級」を刊行します。全編を通じて蛙がテーマの詩集であり、この他にも「蛙」、「定本 蛙」、「第四の蛙」と数多くの蛙作品を発表します。
前述のような蛙語、蛙同士の会話、「ケルルンクック」といった独特なオノマトペ等が詩中に表現されています。また、「●」の1文字だけの世界一短い詩や「るるる…」という蛙の卵の連なりと思われる文字の羅列等、言葉を味わうだけでなく、現代アートのような視覚的な作品もあり、詩、文字、言葉の自由さを楽しむことができます。
心平は、蛙の世界に憧れを持っていたようでした。詩集のエピグラフで、「蛙はでつかい自然の讃嘆者である」と述べているように、蛙を通じて自然を体験していたのかもしれません。

ただ、心平は職業詩人として生計を立てることは難しく、自身や家族のために、日本語講師、編集者から貸本屋、居酒屋の経営等、13もの職業を渡り歩きました。また、生涯で30回以上の引越しを経験したことからも波瀾万丈な人生が窺えます。

昭和38年(1963)には、流浪生活の末、東村山市に家を建て移り住みました。心平は、自然あふれるこの地を愛し、「五光」と名付け(“自然のまま”という意)、85歳で亡くなるまでの25年間を過ごします。昭和46年(1971)には「五光」の碑が建てられ、風化に伴って、昭和56年(1981)には「光あまねしの碑」として再建されています。
心平は地域の幸せを願って「光あまねし」という言葉をしたため、また地域の有志によって記念碑が建てられたことから、心平と地域住民の間には絆があったように感じます。他にも東村山では、自治会に「五光」の名が残っていたり、商店街のシンボルマークが蛙であったりと各所に心平の痕跡を見出すことができます。

詩人といえば孤高の印象がありますが、草野心平の人生を追うと、彼の周りにはいつも誰かが集まってくるようでした。蛙が互いの鳴き声に呼応して大きな合唱の輪をつくるように、心平も他人に感応して言葉を紡ぎ、詩世界が広がっていったのかもしれません。

<最後に>
冒頭の「かえるの合唱」は、実はドイツの童謡が原曲となっています。歌詞はドイツ語の訳詞のようですが、もし草野心平がこの曲に自由に言葉を充てたら、どのような歌詞になっていただろうかと夢想してしまいます。なお、偶然にも、この訳詞は、福島中学(現・福島県立福島高等学校)を卒業した音楽家・岡本敏明(おかもと としあき)によるものでした。

光あまねしの碑
東村山市にある「光あまねしの碑」

商店会
西武池袋線「秋津駅」とJR「新秋津駅」をつなぐ商店街

【関連リンク】
・いわき市立草野心平記念文学館HP
http://www.k-shimpei.jp/index.html

【参考】
・小野浩「草野心平:昭和の凹凸を駆け抜けた詩人」(歴史春秋社)
・「草野心平詩集」(角川春樹事務所)
・*1…「かえるの合唱」から抜粋、*2…草野心平「ごぶらっふの独白」から抜粋

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