山頂部のなだらかな稜線が山地湿原を形成し、「天上の楽園」とも称される美しい景観が登山者を魅了してきた会津駒ケ岳。その一方で、湿原を護るための木道整備は重要な課題でもあります。第2回の今回は駒ケ岳を護るために立ち上がったふもと檜枝岐村の湿原保全活動をひもといていきましょう。
「山向こうで屹前とそびえる燧ヶ岳が父なる山なら、山容なだらかで村から入りやすい会津駒ヶ岳は母なる山。村の鎮守のため神社にこの2つの山が祀られていて、遠い昔から檜枝岐村では山の恵みに感謝するとともに、村の加護を祈りつづけてきました」と、檜枝岐歌舞伎「花駒座」の前座長星長一さんは語ります。
山とともに在り続けた檜枝岐村は、鳥獣の狩猟や川魚の漁、きのこや木の実の採集、炭焼といった、山の恵みに囲まれた暮らしが近代まで続きました。
花駒座は「南京小桜(ハクサンコザクラ)が咲き誇る夏の駒ケ岳を見立てた座名なんです」と長一さん。檜枝岐村で会津駒ヶ岳がどれほど愛され敬われているかを物語るエピソードです。
深田久弥の日本百名山で「私が今までに得た多くの頂上の中でも、最もすばらしい一つであった」と激賞された会津駒ヶ岳は、戦後のモータリゼーションを迎えて登山客で賑わうようになります。
しかし当時の人々には湿原の脆弱性に関する知識が普及されておらず、踏圧被害によって湿原の裸地化が発生しました。
そこで自発的に保全活動をはじめたのが檜枝岐村です。今から約50年前、昭和40年代になると檜枝岐村は木道を敷いて被害を食い止める保全活動を始めました。工事は雪のない7月から10月。資材運搬は人の手によるもので工事は多くの年月を費やしました。
「当時はヘリコプターで運ぶこともできず、山から引き出した木を並べる大変な作業でした」と長一さん。そんな労苦を惜しまないほど檜枝岐村にとって会津駒ヶ岳の湿原荒廃は看過できることではなかったのです。
増加する登山者の安全を護るために、昭和38年(1963年)に初代駒の小屋を平野長英氏が建てました。その後、失火によって焼失後、昭和61年(1986年)に現在の駒の小屋が檜枝岐村の資金によって再建されました。
新しい小屋はトイレが別棟にあり、ヘリコプターによるし尿の運搬は村の負担で運営されています。
湿原を護ることと、登山客を呼び込むこと。持続可能な自然の維持は、保護と利用の両立が欠かせないのです。
平成に入ると木道の複線化が進められました。単線だと登山者が行き交う際に湿原へ足を踏み入れてしまうからです。
また裸地化した湿原に植物の種を蒔き、植生の回復も行われました。
一般的に木道の寿命は10年前後と言われています。しかも一度に全部刷新することはできず、毎年少しずつ改修しなければなりません。
このような改修待ちの壊れた木道では怪我をされる方が多いそうです。
「傾いた木道につまずいたり、浮き木道でバランスを崩されて怪我をする登山者が跡を絶ちません」と駒の小屋の三橋さゆりさんは、木道の改修が湿原の保全だけでなく登山者の安全のためにも必要な活動だと説明してくださいました。
とはいえ木道整備の予算は限界があります。平成19年(2007年)の国立公園指定後も予算繰りが厳しく、思うように木道は整備できませんでした。
木道の老朽化が待ったなしとなった平成29年(2017年)に、檜枝岐村はクラウドファンディングによる資金集めを始めました。
「地元の方、地元出身の方からも寄付を頂きましたが、やはり一番多いのは全国の会津駒ヶ岳のファンからです。ありがたい。木道整備工事はすぐに再開しました」と檜枝岐村観光課の平野勝課長は3年前の当時を振り返ります。
このクラウドファンディングを契機に会津駒ヶ岳に対する檜枝岐村の想いが全国の会津駒ヶ岳登山経験者に伝わりました。それは一口1万円の小口による寄付の多さが示しています。
会津駒ケ岳に登山して木道を歩く際は、湿原を保護し、登山者の安全を守ろうとする、檜枝岐村の人々の想いとファンの想いを感じて頂けたら嬉しいかぎりです。
基金は2020年8月現在で約1,700万円。寄付をされた方には会津駒ヶ岳特製Tシャツ(NORTH FACE製、非売品)が返礼に配られ、尾瀬檜枝岐山旅案内所において名札が掲載されます。
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